GPSの山向こう

Googleマップのナビ機能の欠陥

 車で知らない場所を訪れる場合や、よく知らないルートを長距離走らなければならない場合、スマホGoogleマップのナビを使うのが当たり前になっている。車だけで大阪から山口まで帰省するのは今回が2度目だった。高速網の広がりがよくわからないし、高速を降りてから実家までの田舎道も、Googleマップのナビがなければさっぱりわからない。カーナビを付ける余裕もないので、助かっている。ただし、音声案内のタイミングや内容に疑問はあるので、ナビの指示を鵜呑みにはできない。

 右左折を指示するタイミングが遅い時があるので、どこでどちらに曲がるのかは、常に地図を見てあらかじめ把握しておく必要がある。また、「この先、分岐を右方向/左方向です」と案内があると、脇道に入らなければいけない気にさせられるが、実際には道なりにそのまま進めばいい場合がままある。

 大阪市内を移動する場合でも、普通この道を通過して目的地に向かう車はないだろうというような、奇妙な抜け道めいたルートを指示してくる場合がある。幹線道路、区画道路を走っていたと思ったら、いきなり一方通行だらけの住宅地の生活道路に誘い込まれて、本当にこの道を進んで大丈夫なのかと、怪しみながら走行しなければならないことがある。実際、抜けることができない道へ誘導されたこともあるので、決して信用してはならない。

 また、都市高速の高架下、高架脇で複数の路線が並行している場合、GPSの精度に問題があるらしく、必要のない路線変更を指示してくることがある。あまり走ったことのない、街中の交通量の多い道でこれをやられると、曲がるところで曲がれない路線に移ってしまったり、車線変更が間に合わなくなったりするので焦って危ない。

 きちんとしたカーナビソフトなら、音声案内だけでなく、ポイントポイントで拡大画像が表示され、混乱が生じないような指示がなされる。また、単に目的地までの所要時間が短いというだけで非常識なルートを選んだりしないだろう。しかし、無料で使えるソフトにそこまでの厳密さを求めるのも無理がある。Googleマップのナビを用いる際は、Googleマップ独特の判断基準と文法に慣れなければならない。

大阪から山口までの道のり

 大阪から山口まで行く場合、大きく分けて、瀬戸内海よりの山陽道と内陸よりの中国道の二つの選択肢がある。距離だけを見れば山陽道の方が近いのだが、ラッシュ時には各県の都市圏近くを通る山陽道の方が渋滞に巻き込まれやすいようだ。Googleマップのナビは、検索時の渋滞状況も考慮して、もっとも早く目的地に着くルートを表示してくれる。渋滞があったとしても山陽道の方が早く着くようだと判断して、今回の帰省も山陽道を通るルートを選んだ。

 ところが、渋滞状況というのは刻一刻と変化するもので、特に長距離ドライブの場合、出発時には存在しなかった渋滞が途中で発生して、到着時間が遅れる場合がある。サービスエリアで休憩し、再出発する時にはルートが再検索され、残りの走行時間だけでなく、走行距離が増えていた。最初は原因がわからず戸惑ったが、どうやら高速道路上の渋滞を避けるために、いったん下道に降りて、迂回するルートを導き出したらしい。

 二度ほどこの渋滞迂回を試み、最後には山陽道から尾道道、中国道と乗り継ぐことになった。山口に着く頃には深夜になっていた。中国道のインターを出ると、山奥の知らない道だ。目的地までそう遠いわけではないし、子どもの頃に親が運転する車で通過したこともある道かもしれないが、ナビなしでは道がわからない。他に通る車もない薄暗い道をナビの指示通りに走っていると、途中でいきなり、曲がりくねった狭い道に誘導された。谷間を下っていくようで、道の片方はガードレールもなく、両側からはびっしり植林された木々が迫ってくる。こんな深夜に他に走る車もないだろうが、反対から車が来てもとてもすれ違う道幅もない。これは私道なのではないかとすら思う。かなり長く感じたが、やがて茶畑や納屋、民家がまばらに見えてきて、ガードレールに歩道も付いているような広い道に出ることができた。

 こんな暗くて狭い道沿いにへばりつくように民家があり、生活している人たちがいることに驚いた。もっとも、いったん広い道に出てしまえば、僻地というほどの奥まった場所ではない。深夜におかしな細道を抜けてきたがために、そんなふうに感じられただけなのだが、まるで時代に取り残されたかのような場所に思えた。現在のように隅々まで車道が行き渡るようになるまでは、どのような生活だったのだろうか。

GPSは地球を飛び越えても

 現地の人しか知らないような抜け道を平然と勧めてくるGoogleマップには恐れ入った。もちろんこの道も地図に載っているのだから、まちがいというわけではない。これとは別に翌日、実家から国道に出る際、父から教わった抜け道は、深夜に走った道ほど狭くはないものの、やはり確たる根拠がなければ、踏み入れるのをためらうような雰囲気の道だった。ところが、この道はれっきとした県道で、路線バスも走るような道なのだと聞いて驚いた。この辺りに暮らす人たちにしてみれば、前日の、私道と見紛うような荒っぽい仕上げの道も、当たり前に使う道であり、何ら奇異なものではないようだった。

 Googleマップでなくとも、道路地図を片手に抜け道として利用する人もいるだろうし、地図がなくとも物怖じせず、入り込もうという人もいるかもしれない。ただ、GPSというテクノロジーを用いることで、そのテクノロジーとはほど遠い場所に導かれたことが、酷く奇妙に感じられた。GPSは地球上を覆うもので、「グローバル」な通信や流通を下支えするものであることはまちがいがない。グローバリゼーションを下支えするだけでなく、推し進めるようなテクノロジーを、山奥の実家に帰るために用い、それまで知らなかったような故郷の一面を知った。この落差に、何ともとらえどころのない感じを受けた。

 GPSはもともと、アメリカで軍事用の技術として開発された。そのために人工衛星を打ち上げているのだから、膨大な費用がかかっているはずだし、もとはと言えば、狙ったところにミサイルを撃ち込むための技術なのだ。それだけの技術を一般開放するとは、ずいぶん気前のいい話だ。ここには、開発コストの元を取らなければならないという事情もあるのではないだろうか。GPSというのは、普通にやっていてはとても実現しなかったような技術だし、普通に暮らしていれば必要のないような目的のために開発された技術なのだ。そんな技術は僕たちが日常の中で用いるには手に余るように感じられた。軍事目的がなければ実現しないような技術は、僕たちの日常の必要性からは飛躍しているはずで、ただ便利であるというだけで利用範囲を広げていっていいようなものなのだろうか。 

 GPSは地球を飛び越えても、それを使う僕たちは地べたを這っている。グローバリゼーションというのは、実際には僕たちが思っているより限定的で、もしかすると小さなものなのかもしれない。「とらえどころがない」のは、遠いからで、この遠さを自覚すれば、近くにあるものも見えてくる気がする。きらびやかなものや便利なものにごまかされず、目の前にあるものの実体をとらえていくよすがが、ここから得られるように思えた。