「大阪都構想」検証コンテンツ・リンク集

 大阪市を解体し、大阪府内に特別区を設置しようとする構想(俗称「大阪都構想」)を検証するウェブサイト・ブログ、動画などを紹介します。

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反対派はデメリットがあるだろう、と言うだけなんです。根本は橋下が嫌い。それだけですね(笑)(橋下徹_

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■テキスト──個別記事

「けったいやなぁ」という感覚は非常に大事だと思います。なんでそんなことするんやろ…という素朴な疑問が一番大事だと感じます。(平松邦夫_

学術論文

□団体情報(アルファベット順)

□参考資料

運転中に携帯電話に出ようとしたら危ない

 大人しくテレビを見ているからちょっと仕事しようと書類の整理など始めると「絵本読んで」と言い始める。テレビの操作がわからないから見てくれと言ってくる。これがあるから子どもの面倒を見なければならない状況では自分のことなどできない*1。大人しくテレビを見ているようで実は大人が関わってくれているかどうかを子どもたちは気にかけていて、自分を無視して個人的な作業に没頭されると邪魔をしたくなるのではないだろうか。

 それはさておき、書類の整理など大した仕事ではないが、頭の中で処理の手順を組み立てながらめくっている作業を中断するのは非常に面倒くさい。中断すると作業を再開した時に頭の中で整理していた手順を忘れてしまったり、手元の書類を取り違えてしまったりするリスクがある。また、中断している最中に手順の忘却や取り違えが起こらないように気にかけながら別の用事を済ますこと自体が精神的に負担なのだ。

 これは車の運転中に携帯電話に出るのは危険であるというのと似たところがあるように思う。車の運転というのは慣れてしまえばぼんやりしながらでもできてしまうものだが、ぼんやりしながらでも実際はいろんなことを気にかけながら行なっている。路上駐車している車があればよけなければならないし、よけようと思えば隣の車線の空き具合を見ておく必要がある。別の車がよけてくることも念頭におかねばならない。先読みしているからこそ回避できている危険があって、運転に慣れればなれるほど先読みできる情報が増えて、余裕を持って車を走らせることができる。しかし、これを裏返して考えると、情報を先読みする処理が一時的に途絶えてしまうと、一気に大量の危険に取り囲まれることになるということだ。

 そして、これは家事にも似たようなところがある。家事というのは一つ一つは大したことがなくても、掃除・片付け、洗濯、料理といったいくつものことを同時進行させなければならないところで工夫が必要になる。

 料理一つとっても、材料の下処理をしたり、お湯を沸かしたり、食器を用意したりといったいくつもの作業の組み合わせで成り立っている。使い終わった調理器具や食器を洗ったりしなければならない。料理を並べるテーブルの上を片付けたり、拭いたりする必要もある。これらの作業を一つ一つ終わらせながら進めていたら時間がいくらあっても足りないし、手が足りなくて立ち往生してしまう場合も考えられる。だから、実際には一つのことを進めながら空き時間や手順をうまく組み合わせることになる。

 例えば僕の場合、料理を始める時はとりあえずお湯を沸かすことが多い。今ひとつ気乗りがしない時もとりあえずお湯を沸かす必要があるかどうかを考える。大抵の場合みそ汁を作るし、何かを茹でるのにもお湯は必要だ。お湯が沸くのには時間がかかるのでとりあえずお湯を沸かしておいて無駄になることはない。逆に、みそ汁の具を用意してからお湯を沸かし始めていたら時間ばかりかかってしまう。料理を始めようと思ったら流しに食器が残っている時がある。こういう時もとりあえず料理を始めてしまって、何かの下ゆでを始めたり、炒め物に火が通るまでのちょっとした待ち時間に洗えるだけの食器を少しずつ処理していけばいい。

 調理台のスペースに限りがあるので、料理は出来上がったものからテーブルに並べていった方がいい場合がある。この時も、あらかじめテーブルを片付けて台拭きできれいにしておく一手間をどこかで済ませておかねばならない。料理ができるのをテレビを見ながら待っている家族に片付けを頼むという手段もあるかもしれないが、家事に理解のない家族ほど当てにならないものはない。テーブルの上を片付けるよう頼んでも、返事はするくせにいつまで経っても片付け終わらないので二度三度声をかけることになる。そうしているうちに調理台がいっぱいになってしまい、いったん火を消して結局自分でテーブルを片付けなければならなくなる。ここにも作業を中断せざるを得ない時の煩わしさや、先読みが破綻する危険が潜んでいる。

 些細なことでも当てにならない他人に頼るとかえってストレスになる。仕方ないので料理をする前に、あるいは料理をしながらでもテーブルの準備を済ませておくのだが、この手の輩は片付けたテーブルの上を何も考えずに平気で散らかすので始末が悪い。散らかす方は「すぐに片付ける」「大したことじゃないのにうるさい」と思うのだろうが、そのつまらないことで中断させられるストレスはやつらが考えているよりもかなり大きいのである。

 ここでは料理を事例にしたが、他の家事の一つ一つも似たような工夫を以って行なわれているし、それぞれの家事が同時進行で行なわれているのが当たり前だ。風呂のお湯をはるのにも時間はかかるから、何か別の家事をしている途中で蛇口をひねらねばならない。洗濯機のスイッチを入れるだけのことでも、洗い終わる時間との関係で調整する必要がある。脱ぎ散らかす方は軽い気持ちで靴下をそこらへ放置するのだろう。「まだ着るから洗わなくていい」というつもりで椅子の背もたれにかけられた服が折り重なっていったあげく、ある日まとめて洗濯籠にどさっと入れられているとうんざりする。どうせ着ないのなら最初から洗濯物に出してくれた方がいい。シャツの1枚や2枚、一緒に洗って干すのなら大した手間ではないのだ。服だけでなくタオルなども、放置されると取り込んだ洗濯物と区別がつかなくなって考え込まなければならなくなる。

 邪魔する方は大したことがないつもりでも邪魔される方には目に見えない負荷がかかっていたり、いらない手間が増えていたりすることが多いのが家事というものだ。また、子どもの面倒を見ながらでもできることはあるだろうと思われるかもしれないが、子どもの面倒を見ながら手際良く済ませられる仕事というのはほとんどない。

 風邪で保育所を休んでいる子どもの世話をしていて、車の運転の例えを思いついて書き始めてみたら、こんなに書くつもりはなかった家事のことがかなりふくらんでしまった。家事と育児は分けて考えた方がいい面があるのだが、家事・育児のこういった見えづらい部分を掘り下げる事例をこれからはもう少し意識的に文章化していこうかと思う。

*1:これは子どもに限ったことではないな。つまが家にいると仕事にならないのも同じだ。相手にとっては「ちょっとした」用事でもこっちは面倒くさいことをしている最中だということがわかってもらえない。

寝た子の爪を切る背徳感

小学1年生の頃、毎週爪を切ってきているかどうかのチェックがあって、家で切ってくるのを忘れて学校で慌てて工作用のハサミで切っていた思い出がある。大人になり、親になって、今度は保育所に通わせている子どもたちの爪のことを気にかけておかなければならなくなった。「身だしなみ」という言葉は「自分の身体にまつわることは自分で気をつけるようにする」というように、身体にまつわる自己管理能力を問題としている。子どもの時ほどうるさく身だしなみを注意されるのは、他人によって整えられてきた身体にまつわる管理を引き渡される過渡期であるためだろう。

自分の身体のことであれば自分が気付いた時に対処してやればよいが、他人の身体のことは自分の身体ほどは敏感に察知できない。ついうっかり爪を切ってやることを忘れてしまう。紙に書いておけば忘れないというものでもないし、スマホのリマインダーに登録するのも煩わしいので、自分の爪の伸びすぎが気になった時に一緒に子どもたちの爪も切るようにしている。気付いた時に子どもたちがいない時はうっとうしく感じるのを我慢して自分の爪を切るのも先延ばししておく。

これは完全に忘れ去ってしまうことを避けるための知恵に過ぎない。子どもの爪と大人の爪では伸びる速度が違うかもしれないし、大人と子どもでは「伸びすぎ」の程度が異なることも考えられる。また、自分の爪の伸びすぎに気付いてから実際に子どもたちの爪に対処できるまでにはタイムラグがあるので、このやり方は最初から少し手遅れになる仕掛けになっている。

爪が伸びすぎていると他の子どもを引っかいて怪我をさせてしまったり、自分自身が爪を割ったりしてしまう危険がある。また、爪に垢がたまって不衛生だということもあるだろう(もっとも「不衛生」云々は副次的な理由に過ぎない気がするが)。小さい頃は親が注意をうながされる程度だが、大きくなると定期的な爪のチェックを保育所でもするようになる。子どもが自分から爪を切って欲しいと言ってきてくれるようになったら、この問題はずいぶんと解消する。もう少し大きくなればそれこそ気付いた時に自分で切ってくれるようになるかもしれない。

たまに子どもが寝ている時に爪を切らなければならないことに気付くことがある。せっかく寝てくれた子どもを起こしたくないし、起こしてまですることではない。下の子は気管支が弱く、1歳頃から日常的に吸入をしている。朝晩2回しなければならないのが結構面倒で、しかしこれは呼吸していればことは足りるので寝ているうちにやってしまうこともある。寝ているうちにおむつを変えるようなこともある。よく考えれば寝ている間に爪を切ってしまえばよいと気が付いた。

寝ている子どもの爪を切っていると何とも言えない背徳感のようなものにとらわれる。おむつや吸入とは違ったものを感じる。おむつはたとえ目を覚ましても変えてやらなければならないので、そもそも「寝ているうちにやってしまう」のとはわけが違う。吸入も1日に決められただけ、決められた時間帯にやらなければならないことなので、やはり必然性がともなう。しかし、爪切りにはそういった必然性がなく、何か寝ているうちに肉体にいたずらをしているような気持ちになる。

例えばこれが成人相手で、自分の爪を寝ている間に他人に切られていたと考えるとどうだろう。あるいは髪の毛だと考えた方がピンとくるかもしれない。朝起きて鏡を見たら髪型が変わっていたとなればギョッとするのではないか。もちろん、相手は2歳児だし、爪切り以前に身体の管理の多くを他人に依っているのだが、寝ている間に爪を切られるのは本人にとって何か深刻な人権侵害になりかねないような危うさを感じる。

おそらく、おむつや吸入と違うのは、爪を切ったり髪を切ったりという行為が他人の身体を直に加工しているところにある。別に血が出たり痛みを伴ったりするわけではないが、これらは他人の身体への関わり方の中では質の異なる領域へと境界を踏み越えているというわけだ。しかし、よく考えてみれば生まれて間もない頃はじっとしてくれなくて危ないので、むしろ寝ている時に爪を切るようにしていた。この1、2年の短い間にいつからか子どもとの身体の境界線が自分の中で引き直されていたのだ。

この辺りの線引きは可能な意思疎通の程度によるのだと思う。ある程度意思疎通は可能でありながら、ためらいを覚えつつもまだ爪を切ってしまえる今が親子の身体的距離がもっとも近づいている時期なのかもしれない。

Appleから学ぶ分断工作

 2013年9月にリリースされたMac用のOSX Marverics、iPhone用のiOS7。デバイスのスペックが足りていれば、どちらも無料でアップデート可能であり、Appleの「粋な計らい」のように思える。iOS7搭載の新規購入のiPhoneには、Apple製のOfficeソフトであり、これまで有料だったiWorksが無料でダウンロード可能になった。iOS7のリリースに伴って、iCloudのサービスにも変更があり、iWorkアプリも同時にアップデートされた。

 無料と言われても、パソコンのOSは下手にアップデートすると動作が重くなって仕事にならなくなるので、アップデートはためらわれる。新しいOSではそれまで使えていたアプリケーションが使えなくなる場合もある。思い切りよくパソコン本体やアプリケーションを買い替えるわけにもいかない。一方、iPhoneの方は、2年経てば機種変更の時期となるので、それほど気にせずにアップデートしてしまう。バッテリーやホームボタンなど、デバイス自体にガタが来ている時期でもある。iPhoneのOSはすぐにアップデートし、もともと購入してインストール済みだったiWorkも深く考えずにアップデートした。

 ところが、ここに大きな落とし穴があった。iOS7でアップデートしたiWorkは、パソコンではOSをMavericsにアップデートし、さらにiWorkをアップデートしなければ、iCloudでのiPhoneとMacの連携ができなくなっている。その代わり、といっては何だが、ブラウザ上でiWorkファイルを更新できる機能がiCloudに付け足されている。これは一見便利なのだが、β版という位置づけであり、特に日本語対応が遅れていて、表示が汚らしくて、実用的でない。パソコン用にアプリを購入しなくても実質的に使えるようになると考えれば、iWorkを購入していないユーザーにとってはうれしいことかもしれない。しかし、iWorkを購入していないユーザーはもともとiWorkを必要としていない人たちなので、これでよろこぶ人がどのくらいいるのかはよくわからない。そして、iWorkを必要として、購入のうえで使っていた人たちにとっては、アプリと同様に使えるわけでもないiCloud上のiWork機能にどれくらい意味があるのかもよくわからない。

 ここで困ったことになるのは、MacのOSをアップデートしたくないのに、うっかりiPhoneをアップデートしてしまった人だ。iCloudによるiWorkの連携は重宝していたのに、iPhoneをアップデートしてしまったばかりにMacでiWorkがこれまで通りに使えなくなってしまった。もちろん、その機能を使いたければMarvericsもiWorkも無料でアップデート可能だし、金銭的負担なしで新しいOSが手に入るとなれば、Appleの「粋な計らい」のようにも思える。しかし、最初に述べたように、下手にパソコンのOSをアップデートすると、動作が重くなったり、それまで使えていたアプリが使えなくなったりする危険がある。そうなると、パソコン本体やアプリを最新のものに買い替えなくてはならなくなる。

 このようなジレンマは、あまり一般的ではないかもしれない。しかし、「あまり一般的ではない」ような「似たようなジレンマ」はあちこちで発生しているのではないだろうか。一見すると「Appleの粋な計らい」のなかで、結果的にはいろんな不具合が個別的に大量発生しているかもしれない。不満を述べようにも、各ユーザーが抱えさせられた問題は個別化されてしまっており、問題提起として一般化することが非常に困難になっている。

 「無料」「新機能」をアピールしながら、わざとジレンマを仕込んで「買い替えコスト」をユーザーに背負わせる意図的な戦略としか思えない。なるほど、こんな形で消費者は分断されているのだなと思った。

宮本常一『空からの民俗学』(岩波現代文庫、2001年)

 日本の土地を改良し、日本の海を活用してきた人びとの歴史。

 イカを追って遠くまで船出したり、そのままその土地に居着いてしまったりする人びと。農業を営みつつも、海の恵みを得るために海辺に住む。

 この国の人びとはそのようにして数千年の月日を生きてきたのではないか。海や大地の恵みを育て、知恵をしぼって守りながら暮らしていく。

 資源が尽きて、あるいはグローバル経済に取り残されて、しかし、そんな暮らしに戻るのだとしても、何も困ることはない。むしろそんな土地に生まれたことを感謝してもいいくらいではないか。

宮本常一『空からの民俗学』(岩波現代文庫、2012年)

「駅前風景」

 明治になって全国にわたって鉄道が敷かれるようになると、大きい駅の前に旅館を建てるふうがおこった。小さい駅で、客の乗降の少ないところではせいぜい茶店ができる程度であり、近くに大きな町があっても駅が田圃や畑の中にできた場合には、あまりりっぱでない旅館ができた。そういう旅館は汽車を待つ時間をひと休みしたり、夜下車しても土地に不案内なために行き場に困って泊ったり、また行商などしている者が常宿にしたりするものが多かった。そういう宿はたいてい宿泊料が安く、気軽に泊られた。そして戦前には相宿をさせられることも多くて、木賃宿とかわらないものが少なくなかった。私はそういう宿は相客がとても面白かった。いろいろの話を聞くことができたからである。[宮本 1979=2001:181]

宮本常一『空からの民俗学』(岩波現代文庫、2001年)