寝た子の爪を切る背徳感

小学1年生の頃、毎週爪を切ってきているかどうかのチェックがあって、家で切ってくるのを忘れて学校で慌てて工作用のハサミで切っていた思い出がある。大人になり、親になって、今度は保育所に通わせている子どもたちの爪のことを気にかけておかなければならなくなった。「身だしなみ」という言葉は「自分の身体にまつわることは自分で気をつけるようにする」というように、身体にまつわる自己管理能力を問題としている。子どもの時ほどうるさく身だしなみを注意されるのは、他人によって整えられてきた身体にまつわる管理を引き渡される過渡期であるためだろう。

自分の身体のことであれば自分が気付いた時に対処してやればよいが、他人の身体のことは自分の身体ほどは敏感に察知できない。ついうっかり爪を切ってやることを忘れてしまう。紙に書いておけば忘れないというものでもないし、スマホのリマインダーに登録するのも煩わしいので、自分の爪の伸びすぎが気になった時に一緒に子どもたちの爪も切るようにしている。気付いた時に子どもたちがいない時はうっとうしく感じるのを我慢して自分の爪を切るのも先延ばししておく。

これは完全に忘れ去ってしまうことを避けるための知恵に過ぎない。子どもの爪と大人の爪では伸びる速度が違うかもしれないし、大人と子どもでは「伸びすぎ」の程度が異なることも考えられる。また、自分の爪の伸びすぎに気付いてから実際に子どもたちの爪に対処できるまでにはタイムラグがあるので、このやり方は最初から少し手遅れになる仕掛けになっている。

爪が伸びすぎていると他の子どもを引っかいて怪我をさせてしまったり、自分自身が爪を割ったりしてしまう危険がある。また、爪に垢がたまって不衛生だということもあるだろう(もっとも「不衛生」云々は副次的な理由に過ぎない気がするが)。小さい頃は親が注意をうながされる程度だが、大きくなると定期的な爪のチェックを保育所でもするようになる。子どもが自分から爪を切って欲しいと言ってきてくれるようになったら、この問題はずいぶんと解消する。もう少し大きくなればそれこそ気付いた時に自分で切ってくれるようになるかもしれない。

たまに子どもが寝ている時に爪を切らなければならないことに気付くことがある。せっかく寝てくれた子どもを起こしたくないし、起こしてまですることではない。下の子は気管支が弱く、1歳頃から日常的に吸入をしている。朝晩2回しなければならないのが結構面倒で、しかしこれは呼吸していればことは足りるので寝ているうちにやってしまうこともある。寝ているうちにおむつを変えるようなこともある。よく考えれば寝ている間に爪を切ってしまえばよいと気が付いた。

寝ている子どもの爪を切っていると何とも言えない背徳感のようなものにとらわれる。おむつや吸入とは違ったものを感じる。おむつはたとえ目を覚ましても変えてやらなければならないので、そもそも「寝ているうちにやってしまう」のとはわけが違う。吸入も1日に決められただけ、決められた時間帯にやらなければならないことなので、やはり必然性がともなう。しかし、爪切りにはそういった必然性がなく、何か寝ているうちに肉体にいたずらをしているような気持ちになる。

例えばこれが成人相手で、自分の爪を寝ている間に他人に切られていたと考えるとどうだろう。あるいは髪の毛だと考えた方がピンとくるかもしれない。朝起きて鏡を見たら髪型が変わっていたとなればギョッとするのではないか。もちろん、相手は2歳児だし、爪切り以前に身体の管理の多くを他人に依っているのだが、寝ている間に爪を切られるのは本人にとって何か深刻な人権侵害になりかねないような危うさを感じる。

おそらく、おむつや吸入と違うのは、爪を切ったり髪を切ったりという行為が他人の身体を直に加工しているところにある。別に血が出たり痛みを伴ったりするわけではないが、これらは他人の身体への関わり方の中では質の異なる領域へと境界を踏み越えているというわけだ。しかし、よく考えてみれば生まれて間もない頃はじっとしてくれなくて危ないので、むしろ寝ている時に爪を切るようにしていた。この1、2年の短い間にいつからか子どもとの身体の境界線が自分の中で引き直されていたのだ。

この辺りの線引きは可能な意思疎通の程度によるのだと思う。ある程度意思疎通は可能でありながら、ためらいを覚えつつもまだ爪を切ってしまえる今が親子の身体的距離がもっとも近づいている時期なのかもしれない。

Appleから学ぶ分断工作

 2013年9月にリリースされたMac用のOSX Marverics、iPhone用のiOS7。デバイスのスペックが足りていれば、どちらも無料でアップデート可能であり、Appleの「粋な計らい」のように思える。iOS7搭載の新規購入のiPhoneには、Apple製のOfficeソフトであり、これまで有料だったiWorksが無料でダウンロード可能になった。iOS7のリリースに伴って、iCloudのサービスにも変更があり、iWorkアプリも同時にアップデートされた。

 無料と言われても、パソコンのOSは下手にアップデートすると動作が重くなって仕事にならなくなるので、アップデートはためらわれる。新しいOSではそれまで使えていたアプリケーションが使えなくなる場合もある。思い切りよくパソコン本体やアプリケーションを買い替えるわけにもいかない。一方、iPhoneの方は、2年経てば機種変更の時期となるので、それほど気にせずにアップデートしてしまう。バッテリーやホームボタンなど、デバイス自体にガタが来ている時期でもある。iPhoneのOSはすぐにアップデートし、もともと購入してインストール済みだったiWorkも深く考えずにアップデートした。

 ところが、ここに大きな落とし穴があった。iOS7でアップデートしたiWorkは、パソコンではOSをMavericsにアップデートし、さらにiWorkをアップデートしなければ、iCloudでのiPhoneとMacの連携ができなくなっている。その代わり、といっては何だが、ブラウザ上でiWorkファイルを更新できる機能がiCloudに付け足されている。これは一見便利なのだが、β版という位置づけであり、特に日本語対応が遅れていて、表示が汚らしくて、実用的でない。パソコン用にアプリを購入しなくても実質的に使えるようになると考えれば、iWorkを購入していないユーザーにとってはうれしいことかもしれない。しかし、iWorkを購入していないユーザーはもともとiWorkを必要としていない人たちなので、これでよろこぶ人がどのくらいいるのかはよくわからない。そして、iWorkを必要として、購入のうえで使っていた人たちにとっては、アプリと同様に使えるわけでもないiCloud上のiWork機能にどれくらい意味があるのかもよくわからない。

 ここで困ったことになるのは、MacのOSをアップデートしたくないのに、うっかりiPhoneをアップデートしてしまった人だ。iCloudによるiWorkの連携は重宝していたのに、iPhoneをアップデートしてしまったばかりにMacでiWorkがこれまで通りに使えなくなってしまった。もちろん、その機能を使いたければMarvericsもiWorkも無料でアップデート可能だし、金銭的負担なしで新しいOSが手に入るとなれば、Appleの「粋な計らい」のようにも思える。しかし、最初に述べたように、下手にパソコンのOSをアップデートすると、動作が重くなったり、それまで使えていたアプリが使えなくなったりする危険がある。そうなると、パソコン本体やアプリを最新のものに買い替えなくてはならなくなる。

 このようなジレンマは、あまり一般的ではないかもしれない。しかし、「あまり一般的ではない」ような「似たようなジレンマ」はあちこちで発生しているのではないだろうか。一見すると「Appleの粋な計らい」のなかで、結果的にはいろんな不具合が個別的に大量発生しているかもしれない。不満を述べようにも、各ユーザーが抱えさせられた問題は個別化されてしまっており、問題提起として一般化することが非常に困難になっている。

 「無料」「新機能」をアピールしながら、わざとジレンマを仕込んで「買い替えコスト」をユーザーに背負わせる意図的な戦略としか思えない。なるほど、こんな形で消費者は分断されているのだなと思った。

宮本常一『空からの民俗学』(岩波現代文庫、2001年)

 日本の土地を改良し、日本の海を活用してきた人びとの歴史。

 イカを追って遠くまで船出したり、そのままその土地に居着いてしまったりする人びと。農業を営みつつも、海の恵みを得るために海辺に住む。

 この国の人びとはそのようにして数千年の月日を生きてきたのではないか。海や大地の恵みを育て、知恵をしぼって守りながら暮らしていく。

 資源が尽きて、あるいはグローバル経済に取り残されて、しかし、そんな暮らしに戻るのだとしても、何も困ることはない。むしろそんな土地に生まれたことを感謝してもいいくらいではないか。

宮本常一『空からの民俗学』(岩波現代文庫、2012年)

「駅前風景」

 明治になって全国にわたって鉄道が敷かれるようになると、大きい駅の前に旅館を建てるふうがおこった。小さい駅で、客の乗降の少ないところではせいぜい茶店ができる程度であり、近くに大きな町があっても駅が田圃や畑の中にできた場合には、あまりりっぱでない旅館ができた。そういう旅館は汽車を待つ時間をひと休みしたり、夜下車しても土地に不案内なために行き場に困って泊ったり、また行商などしている者が常宿にしたりするものが多かった。そういう宿はたいてい宿泊料が安く、気軽に泊られた。そして戦前には相宿をさせられることも多くて、木賃宿とかわらないものが少なくなかった。私はそういう宿は相客がとても面白かった。いろいろの話を聞くことができたからである。[宮本 1979=2001:181]

宮本常一『空からの民俗学』(岩波現代文庫、2001年)