運転中に携帯電話に出ようとしたら危ない

 大人しくテレビを見ているからちょっと仕事しようと書類の整理など始めると「絵本読んで」と言い始める。テレビの操作がわからないから見てくれと言ってくる。これがあるから子どもの面倒を見なければならない状況では自分のことなどできない*1。大人しくテレビを見ているようで実は大人が関わってくれているかどうかを子どもたちは気にかけていて、自分を無視して個人的な作業に没頭されると邪魔をしたくなるのではないだろうか。

 それはさておき、書類の整理など大した仕事ではないが、頭の中で処理の手順を組み立てながらめくっている作業を中断するのは非常に面倒くさい。中断すると作業を再開した時に頭の中で整理していた手順を忘れてしまったり、手元の書類を取り違えてしまったりするリスクがある。また、中断している最中に手順の忘却や取り違えが起こらないように気にかけながら別の用事を済ますこと自体が精神的に負担なのだ。

 これは車の運転中に携帯電話に出るのは危険であるというのと似たところがあるように思う。車の運転というのは慣れてしまえばぼんやりしながらでもできてしまうものだが、ぼんやりしながらでも実際はいろんなことを気にかけながら行なっている。路上駐車している車があればよけなければならないし、よけようと思えば隣の車線の空き具合を見ておく必要がある。別の車がよけてくることも念頭におかねばならない。先読みしているからこそ回避できている危険があって、運転に慣れればなれるほど先読みできる情報が増えて、余裕を持って車を走らせることができる。しかし、これを裏返して考えると、情報を先読みする処理が一時的に途絶えてしまうと、一気に大量の危険に取り囲まれることになるということだ。

 そして、これは家事にも似たようなところがある。家事というのは一つ一つは大したことがなくても、掃除・片付け、洗濯、料理といったいくつものことを同時進行させなければならないところで工夫が必要になる。

 料理一つとっても、材料の下処理をしたり、お湯を沸かしたり、食器を用意したりといったいくつもの作業の組み合わせで成り立っている。使い終わった調理器具や食器を洗ったりしなければならない。料理を並べるテーブルの上を片付けたり、拭いたりする必要もある。これらの作業を一つ一つ終わらせながら進めていたら時間がいくらあっても足りないし、手が足りなくて立ち往生してしまう場合も考えられる。だから、実際には一つのことを進めながら空き時間や手順をうまく組み合わせることになる。

 例えば僕の場合、料理を始める時はとりあえずお湯を沸かすことが多い。今ひとつ気乗りがしない時もとりあえずお湯を沸かす必要があるかどうかを考える。大抵の場合みそ汁を作るし、何かを茹でるのにもお湯は必要だ。お湯が沸くのには時間がかかるのでとりあえずお湯を沸かしておいて無駄になることはない。逆に、みそ汁の具を用意してからお湯を沸かし始めていたら時間ばかりかかってしまう。料理を始めようと思ったら流しに食器が残っている時がある。こういう時もとりあえず料理を始めてしまって、何かの下ゆでを始めたり、炒め物に火が通るまでのちょっとした待ち時間に洗えるだけの食器を少しずつ処理していけばいい。

 調理台のスペースに限りがあるので、料理は出来上がったものからテーブルに並べていった方がいい場合がある。この時も、あらかじめテーブルを片付けて台拭きできれいにしておく一手間をどこかで済ませておかねばならない。料理ができるのをテレビを見ながら待っている家族に片付けを頼むという手段もあるかもしれないが、家事に理解のない家族ほど当てにならないものはない。テーブルの上を片付けるよう頼んでも、返事はするくせにいつまで経っても片付け終わらないので二度三度声をかけることになる。そうしているうちに調理台がいっぱいになってしまい、いったん火を消して結局自分でテーブルを片付けなければならなくなる。ここにも作業を中断せざるを得ない時の煩わしさや、先読みが破綻する危険が潜んでいる。

 些細なことでも当てにならない他人に頼るとかえってストレスになる。仕方ないので料理をする前に、あるいは料理をしながらでもテーブルの準備を済ませておくのだが、この手の輩は片付けたテーブルの上を何も考えずに平気で散らかすので始末が悪い。散らかす方は「すぐに片付ける」「大したことじゃないのにうるさい」と思うのだろうが、そのつまらないことで中断させられるストレスはやつらが考えているよりもかなり大きいのである。

 ここでは料理を事例にしたが、他の家事の一つ一つも似たような工夫を以って行なわれているし、それぞれの家事が同時進行で行なわれているのが当たり前だ。風呂のお湯をはるのにも時間はかかるから、何か別の家事をしている途中で蛇口をひねらねばならない。洗濯機のスイッチを入れるだけのことでも、洗い終わる時間との関係で調整する必要がある。脱ぎ散らかす方は軽い気持ちで靴下をそこらへ放置するのだろう。「まだ着るから洗わなくていい」というつもりで椅子の背もたれにかけられた服が折り重なっていったあげく、ある日まとめて洗濯籠にどさっと入れられているとうんざりする。どうせ着ないのなら最初から洗濯物に出してくれた方がいい。シャツの1枚や2枚、一緒に洗って干すのなら大した手間ではないのだ。服だけでなくタオルなども、放置されると取り込んだ洗濯物と区別がつかなくなって考え込まなければならなくなる。

 邪魔する方は大したことがないつもりでも邪魔される方には目に見えない負荷がかかっていたり、いらない手間が増えていたりすることが多いのが家事というものだ。また、子どもの面倒を見ながらでもできることはあるだろうと思われるかもしれないが、子どもの面倒を見ながら手際良く済ませられる仕事というのはほとんどない。

 風邪で保育所を休んでいる子どもの世話をしていて、車の運転の例えを思いついて書き始めてみたら、こんなに書くつもりはなかった家事のことがかなりふくらんでしまった。家事と育児は分けて考えた方がいい面があるのだが、家事・育児のこういった見えづらい部分を掘り下げる事例をこれからはもう少し意識的に文章化していこうかと思う。

*1:これは子どもに限ったことではないな。つまが家にいると仕事にならないのも同じだ。相手にとっては「ちょっとした」用事でもこっちは面倒くさいことをしている最中だということがわかってもらえない。