住民投票に関する他県の友人とのLINEのやりとり

「二重行政の解消って府と市の話し合いでできんの?」
『法定協議会で精査した結果、そもそも二重行政が存在しないことが明らかになったよ。』
「じゃあなんで一生懸命なん?」
大阪府が中央集権を図るには都合がいいからだよ。』
「それって地方分権と矛盾せんの?」
『当然、矛盾する。道州制を念頭におけばわざわざ大枚かけて逆行する取り組みを進めることになる。』
「え~じゃあ嘘ついてまで何したいの?」
『基本的に橋下は公共財を放出したいのさ。府知事時代から利権がらみの支持層が着いて来てるんだと思うよ。大阪で売り払うものがなくなった頃には国政に飛びたいんだろう。むしろ、橋下はもう少し早く国政に行っておきたかったはず。』
「お仲間に府や市の財産を売り払ってさいなら~と」
『もう橋下市政完全に破綻してるから、今結構キワキワの詐欺を押し切るために死に物狂いでプロパガンダを拡散してるよ。』
「アジアいんちきイカサマ銀行と一緒じゃん」
『大阪は正味酷いありさまよ。』
「そらあもうキツネ踊りしかないな」(謎)

橋下の嘘・今昔

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敬老パスはなくしません?JRや私鉄利用を可能にします?

矢継ぎ早に劣化する「都構想」

ドーンセンターとクレオ大阪は「二重行政」?

 大阪維新の会が二重行政の一例として上げていた施設に大阪府のドーンセンターと大阪市クレオ大阪がありました。

 しかし、府知事時代の橋下さんはドーンセンターを潰そうとしていました。クレオ大阪だけ残っても、大阪市民以外の受け皿がなくなってしまいます。ドーンセンターを残すとしても、そもそもそのドーンセンターを潰そうとしていたのは橋下さんでした。

 橋下さんは単に自分が潰したい施設を「二重行政」という言葉でオブラートに包んで政治抗争に利用しているのではないでしょうか。

堺市の竹山市長はボーナスを2回もらった?

橋下さんが2015年2月15日に堺市内で行なった街頭演説で発言した内容について、竹山市長によるご意見です。

堺市内での維新の会タウンミーティングに関する取材がありました

赤バスはなくなりません?

選挙が終わればサービスカット

大阪府廃止構想」から「大阪都構想」へ

民主主義をバカにしているのは誰?

 「僅差でも多数意見は多数意見として扱わなければならない」と朝日新聞を避難していたのに、住民投票では反対多数の民意を無視しようとする橋下さん。

保育士を増やすには?

「大阪都構想」が作り出す「ムダ」──多重化した現実を生きること

大阪都構想」はなぜわかりにくいのか

 「大阪都構想」は2つの顔を持っている。「大阪都構想」とは、大阪市を無くし、選挙で選ばれた区長と議会が区政を行なう「5つの特別区を設置する」というものであり、住民投票で判断されるのは「大阪市廃止と特別区設置の賛否」である。もう1つは、大阪維新の会の代表である橋下徹が語る「大阪都構想」で、大阪府大阪市の二重行政のムダを解消し、権限を集中させることで大阪府が「強い広域自治体」となり、大阪市特別区に再編することで住民に近い「優しい基礎自治体」を実現するというものである。前者は「大阪都構想」の制度的な枠組みの実体であり、後者は「大阪都構想」の理念ないし理想を述べたものと考えればよい。

 「大阪都構想」がわかりにくく「説明不足」と言われる原因は、制度的な枠組みの中には橋下徹が語る理想を実現する根拠が存在せず、どれだけ説明されても夢物語の域を出ないというところにある。橋下が「大阪都構想」を唱え始めた当初は、大阪府大阪市の二重行政を解消すれば、年間4000億円の財源が生まれ、これらを住民サービスの充実や大阪全体の経済戦略に活用できると言っていた。しかし、府市の行政業務が精査された結果、二重行政と言えるようなムダはほとんど存在せず、府市の統合効果額は年間1億円程度に過ぎず、大阪市特別区への移行コストは少なく見積もっても680億円にも上ることが明らかになった。それにもかかわらず、橋下徹率いる大阪維新の会は「二重行政を解消し、豊かな大阪を作る」というアピールをやめようとしない。 

「ムダ」を作り出すための仕組み

 ムダがないにもかかわらず、二重行政を解消することを強硬に主張する「大阪都構想」とは「ムダを作り出すための仕組み」なのだと言える。「年間4000億円の財源が生まれる」と強調されていたように「ムダをなくす」ことで利益が生まれると考えられている。「豊かな大阪を作る」ためには「二重行政を解消」すればいいらしい。「ムダ=二重行政」をなくせば「利益が生まれる=大阪が豊かになる」とはごく単純なロジックであり、方向性としてはまちがっていないことになる。ところが実質的な「ムダ」が存在しないとしたらどうだろう。「大阪都構想」は、現実から目を背けさせ、ありもしない「ムダ」を作り出して、われわれを先行きの怪しい未来へ引きずりこむ役割を果たしているのが実際ではないだろうか。

 何をムダと考えるかは人によって、また状況によっても異なる。似たようなものであっても活用されていればムダではないし、ある人にとっては無用なものでも別の人にとっては必要不可欠なものかもしれない。そういうものの蓄積をわれわれは「余裕」と呼ぶのではないだろうか。余裕があればこそ緊急事態への対処も可能になるし、それは日々の生活に豊かさをもたらしてくれるものでもある。

多重化した現実を生きる

 ホームレスの人たちと接しているとしばしば二重化した現実に突き当たる。誰もホームレス生活を送らずに済む社会であるべきだ。自立支援事業に代表される「ホームレス対策」や生活保護といった制度がある。それらの制度を利用する人もいれば、それらの利用を拒み公園や路上での野宿生活を選ぶ人たちがいる。その人たちに対して「ホームレス対策」や生活保護を押し付けることはできない。現行の「ホームレス対策」や生活保護には問題点も多く、利用したくても利用できないという現実があることをわれわれは知っているからだ。

 われわれが生きている社会の現実は二重三重に重なり合っており、その人の立場や置かれた状況によって現れるものが異なるのが当たり前なのだ。これまで大阪市が行なってきた「ホームレス対策」には多くの問題点がある。しかし、それでもそれらの仕組みによって救われた人たちも多い。現実はどちらかが正しくて、どちらかがまちがっているというふうには割り切れない。われわれは「今こうしてここにいる」ことをお互いに肯定するところから出発しなければならない。誰かにとっては「ムダ」で「まちがった」生き方に思われても、その人がそのようにして今ここにいることを否定することに何の意味があるだろうか。

 橋下改革の中では「民間活力の導入」の名の下に公共施設の民間委託が推進されている。「単なる憩いの場としては維持費ばかりかかる公共空間」を一部有料化して収益が上がるようにすれば「ムダをなくして利益が生まれた」ことになるのだろうか。ありもしない「ムダ」を作り出し、実質的にはわれわれの暮らしから余裕を奪うような二分法は疑わしい。われわれは多重化した現実を生きる当たり前の社会をこそ肯定し、お互いを認め合いながら豊かさを享受していきたい。それは、現実から目をそらさずに協働を模索することで今ここからでも可能なことなのだ。


注記

 この原稿は『あしたのロジョー』というフリーペーパーのために書かれました。『ロジョー』は2015年4月現在復刊の準備中です。復刊の際、配布にご協力下さる方、店舗や施設等に置いていただける方はみいらかんすまでご連絡いただけると幸いです。

連載企画「大阪都構想」を考える(吉富有治)

  1. 都構想のルーツを探る──古くて新しい大阪の自治体改革
  2. 都構想の外観を眺めてみる──中身は東京23区とほぼ同じ大阪都
  3. 欠ける成長戦略──都構想でなければ大阪の発展は無理?
  4. 大阪府市の二重行政は本当か──実態を反映しない二重行政論議
  5. 住民にやさしい基礎自治体──「ニアイズベター」という名の言葉のマジック
  6. インタビュー 自民党大阪府議団 花谷充愉幹事長──否めない行政サービスの低下
  7. インタビュー 東京都世田谷 保坂展人区長── 都構想に賛成する区長の声など聞いたことがない
  8. 賛成派の方々の取材ができなかった事情について
  9. わかりやすい政治からの脱却を
  10. [番外編]聞いてみた大阪市職員の本音!──想像しにくいバラ色の未来
  11. [番外編]続・聞いてみた大阪市職員の本音!──心配な行政サービスの切り捨てと有料化
  12. 「大阪市はなくならない」の嘘──「特別区のサービスは上がる」の欺瞞
  13. 今のまま? それとも悪くなる?──気になる住民サービスの行方
  14. 大阪都構想のお粗末さ──成長性と効率性のまやかし
  15. 反対多数で都構想は実現せず

吉富さんは「大谷昭宏事務所Webコラム」内にて「大阪都構想」に関連したコラムを他にも多く書かれています。

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「大阪都構想」検証コンテンツ・リンク集

 大阪市を解体し、大阪府内に特別区を設置しようとする構想(俗称「大阪都構想」)を検証するウェブサイト・ブログ、動画などを紹介します。

 このリンク集は随時更新いたします。優れたコンテンツをご存知の方は管理人までお知らせ下さると助かります。

反対派はデメリットがあるだろう、と言うだけなんです。根本は橋下が嫌い。それだけですね(笑)(橋下徹_

■動画

■ブログ・ウェブサイト等

■テキスト──個別記事

「けったいやなぁ」という感覚は非常に大事だと思います。なんでそんなことするんやろ…という素朴な疑問が一番大事だと感じます。(平松邦夫_

学術論文

□団体情報(アルファベット順)

□参考資料

運転中に携帯電話に出ようとしたら危ない

 大人しくテレビを見ているからちょっと仕事しようと書類の整理など始めると「絵本読んで」と言い始める。テレビの操作がわからないから見てくれと言ってくる。これがあるから子どもの面倒を見なければならない状況では自分のことなどできない*1。大人しくテレビを見ているようで実は大人が関わってくれているかどうかを子どもたちは気にかけていて、自分を無視して個人的な作業に没頭されると邪魔をしたくなるのではないだろうか。

 それはさておき、書類の整理など大した仕事ではないが、頭の中で処理の手順を組み立てながらめくっている作業を中断するのは非常に面倒くさい。中断すると作業を再開した時に頭の中で整理していた手順を忘れてしまったり、手元の書類を取り違えてしまったりするリスクがある。また、中断している最中に手順の忘却や取り違えが起こらないように気にかけながら別の用事を済ますこと自体が精神的に負担なのだ。

 これは車の運転中に携帯電話に出るのは危険であるというのと似たところがあるように思う。車の運転というのは慣れてしまえばぼんやりしながらでもできてしまうものだが、ぼんやりしながらでも実際はいろんなことを気にかけながら行なっている。路上駐車している車があればよけなければならないし、よけようと思えば隣の車線の空き具合を見ておく必要がある。別の車がよけてくることも念頭におかねばならない。先読みしているからこそ回避できている危険があって、運転に慣れればなれるほど先読みできる情報が増えて、余裕を持って車を走らせることができる。しかし、これを裏返して考えると、情報を先読みする処理が一時的に途絶えてしまうと、一気に大量の危険に取り囲まれることになるということだ。

 そして、これは家事にも似たようなところがある。家事というのは一つ一つは大したことがなくても、掃除・片付け、洗濯、料理といったいくつものことを同時進行させなければならないところで工夫が必要になる。

 料理一つとっても、材料の下処理をしたり、お湯を沸かしたり、食器を用意したりといったいくつもの作業の組み合わせで成り立っている。使い終わった調理器具や食器を洗ったりしなければならない。料理を並べるテーブルの上を片付けたり、拭いたりする必要もある。これらの作業を一つ一つ終わらせながら進めていたら時間がいくらあっても足りないし、手が足りなくて立ち往生してしまう場合も考えられる。だから、実際には一つのことを進めながら空き時間や手順をうまく組み合わせることになる。

 例えば僕の場合、料理を始める時はとりあえずお湯を沸かすことが多い。今ひとつ気乗りがしない時もとりあえずお湯を沸かす必要があるかどうかを考える。大抵の場合みそ汁を作るし、何かを茹でるのにもお湯は必要だ。お湯が沸くのには時間がかかるのでとりあえずお湯を沸かしておいて無駄になることはない。逆に、みそ汁の具を用意してからお湯を沸かし始めていたら時間ばかりかかってしまう。料理を始めようと思ったら流しに食器が残っている時がある。こういう時もとりあえず料理を始めてしまって、何かの下ゆでを始めたり、炒め物に火が通るまでのちょっとした待ち時間に洗えるだけの食器を少しずつ処理していけばいい。

 調理台のスペースに限りがあるので、料理は出来上がったものからテーブルに並べていった方がいい場合がある。この時も、あらかじめテーブルを片付けて台拭きできれいにしておく一手間をどこかで済ませておかねばならない。料理ができるのをテレビを見ながら待っている家族に片付けを頼むという手段もあるかもしれないが、家事に理解のない家族ほど当てにならないものはない。テーブルの上を片付けるよう頼んでも、返事はするくせにいつまで経っても片付け終わらないので二度三度声をかけることになる。そうしているうちに調理台がいっぱいになってしまい、いったん火を消して結局自分でテーブルを片付けなければならなくなる。ここにも作業を中断せざるを得ない時の煩わしさや、先読みが破綻する危険が潜んでいる。

 些細なことでも当てにならない他人に頼るとかえってストレスになる。仕方ないので料理をする前に、あるいは料理をしながらでもテーブルの準備を済ませておくのだが、この手の輩は片付けたテーブルの上を何も考えずに平気で散らかすので始末が悪い。散らかす方は「すぐに片付ける」「大したことじゃないのにうるさい」と思うのだろうが、そのつまらないことで中断させられるストレスはやつらが考えているよりもかなり大きいのである。

 ここでは料理を事例にしたが、他の家事の一つ一つも似たような工夫を以って行なわれているし、それぞれの家事が同時進行で行なわれているのが当たり前だ。風呂のお湯をはるのにも時間はかかるから、何か別の家事をしている途中で蛇口をひねらねばならない。洗濯機のスイッチを入れるだけのことでも、洗い終わる時間との関係で調整する必要がある。脱ぎ散らかす方は軽い気持ちで靴下をそこらへ放置するのだろう。「まだ着るから洗わなくていい」というつもりで椅子の背もたれにかけられた服が折り重なっていったあげく、ある日まとめて洗濯籠にどさっと入れられているとうんざりする。どうせ着ないのなら最初から洗濯物に出してくれた方がいい。シャツの1枚や2枚、一緒に洗って干すのなら大した手間ではないのだ。服だけでなくタオルなども、放置されると取り込んだ洗濯物と区別がつかなくなって考え込まなければならなくなる。

 邪魔する方は大したことがないつもりでも邪魔される方には目に見えない負荷がかかっていたり、いらない手間が増えていたりすることが多いのが家事というものだ。また、子どもの面倒を見ながらでもできることはあるだろうと思われるかもしれないが、子どもの面倒を見ながら手際良く済ませられる仕事というのはほとんどない。

 風邪で保育所を休んでいる子どもの世話をしていて、車の運転の例えを思いついて書き始めてみたら、こんなに書くつもりはなかった家事のことがかなりふくらんでしまった。家事と育児は分けて考えた方がいい面があるのだが、家事・育児のこういった見えづらい部分を掘り下げる事例をこれからはもう少し意識的に文章化していこうかと思う。

*1:これは子どもに限ったことではないな。つまが家にいると仕事にならないのも同じだ。相手にとっては「ちょっとした」用事でもこっちは面倒くさいことをしている最中だということがわかってもらえない。

寝た子の爪を切る背徳感

小学1年生の頃、毎週爪を切ってきているかどうかのチェックがあって、家で切ってくるのを忘れて学校で慌てて工作用のハサミで切っていた思い出がある。大人になり、親になって、今度は保育所に通わせている子どもたちの爪のことを気にかけておかなければならなくなった。「身だしなみ」という言葉は「自分の身体にまつわることは自分で気をつけるようにする」というように、身体にまつわる自己管理能力を問題としている。子どもの時ほどうるさく身だしなみを注意されるのは、他人によって整えられてきた身体にまつわる管理を引き渡される過渡期であるためだろう。

自分の身体のことであれば自分が気付いた時に対処してやればよいが、他人の身体のことは自分の身体ほどは敏感に察知できない。ついうっかり爪を切ってやることを忘れてしまう。紙に書いておけば忘れないというものでもないし、スマホのリマインダーに登録するのも煩わしいので、自分の爪の伸びすぎが気になった時に一緒に子どもたちの爪も切るようにしている。気付いた時に子どもたちがいない時はうっとうしく感じるのを我慢して自分の爪を切るのも先延ばししておく。

これは完全に忘れ去ってしまうことを避けるための知恵に過ぎない。子どもの爪と大人の爪では伸びる速度が違うかもしれないし、大人と子どもでは「伸びすぎ」の程度が異なることも考えられる。また、自分の爪の伸びすぎに気付いてから実際に子どもたちの爪に対処できるまでにはタイムラグがあるので、このやり方は最初から少し手遅れになる仕掛けになっている。

爪が伸びすぎていると他の子どもを引っかいて怪我をさせてしまったり、自分自身が爪を割ったりしてしまう危険がある。また、爪に垢がたまって不衛生だということもあるだろう(もっとも「不衛生」云々は副次的な理由に過ぎない気がするが)。小さい頃は親が注意をうながされる程度だが、大きくなると定期的な爪のチェックを保育所でもするようになる。子どもが自分から爪を切って欲しいと言ってきてくれるようになったら、この問題はずいぶんと解消する。もう少し大きくなればそれこそ気付いた時に自分で切ってくれるようになるかもしれない。

たまに子どもが寝ている時に爪を切らなければならないことに気付くことがある。せっかく寝てくれた子どもを起こしたくないし、起こしてまですることではない。下の子は気管支が弱く、1歳頃から日常的に吸入をしている。朝晩2回しなければならないのが結構面倒で、しかしこれは呼吸していればことは足りるので寝ているうちにやってしまうこともある。寝ているうちにおむつを変えるようなこともある。よく考えれば寝ている間に爪を切ってしまえばよいと気が付いた。

寝ている子どもの爪を切っていると何とも言えない背徳感のようなものにとらわれる。おむつや吸入とは違ったものを感じる。おむつはたとえ目を覚ましても変えてやらなければならないので、そもそも「寝ているうちにやってしまう」のとはわけが違う。吸入も1日に決められただけ、決められた時間帯にやらなければならないことなので、やはり必然性がともなう。しかし、爪切りにはそういった必然性がなく、何か寝ているうちに肉体にいたずらをしているような気持ちになる。

例えばこれが成人相手で、自分の爪を寝ている間に他人に切られていたと考えるとどうだろう。あるいは髪の毛だと考えた方がピンとくるかもしれない。朝起きて鏡を見たら髪型が変わっていたとなればギョッとするのではないか。もちろん、相手は2歳児だし、爪切り以前に身体の管理の多くを他人に依っているのだが、寝ている間に爪を切られるのは本人にとって何か深刻な人権侵害になりかねないような危うさを感じる。

おそらく、おむつや吸入と違うのは、爪を切ったり髪を切ったりという行為が他人の身体を直に加工しているところにある。別に血が出たり痛みを伴ったりするわけではないが、これらは他人の身体への関わり方の中では質の異なる領域へと境界を踏み越えているというわけだ。しかし、よく考えてみれば生まれて間もない頃はじっとしてくれなくて危ないので、むしろ寝ている時に爪を切るようにしていた。この1、2年の短い間にいつからか子どもとの身体の境界線が自分の中で引き直されていたのだ。

この辺りの線引きは可能な意思疎通の程度によるのだと思う。ある程度意思疎通は可能でありながら、ためらいを覚えつつもまだ爪を切ってしまえる今が親子の身体的距離がもっとも近づいている時期なのかもしれない。